どうもデリ男(@yutakandori)です!
みなさんは、三木清という哲学者をご存知でしょうか?
三木清は、1897年に生まれて1945年まで生涯を全うした、京都学派の哲学者です。
出典:wikipedia
今まで哲学というジャンルに興味はなかったのですが、人生論ノート は強く印象に残っています。
- 成功は量的なもので、幸福は質的なもの
- 怒り・憎しみ・虚栄心・嫉妬についての深い考察
- 三木清は奥さんや子供がいながら、思想や信条を理由に殺された
など、読むにつれて考えさせられることが増え、さらに三木清という人間の奥深さに感銘を受けました。
人生論ノート は三木清の死後2年後の1947年に出版されましたが、現代の日本人にも知ってほしい価値観なので、今回は記事にすることにしました。
この記事が三木清を知るためのきっかけになってもらえたら嬉しいです!
- 自分の性格がよく分からない
- 閉塞感を感じながら日々の生活を送っている
- 自分の思考をうまく言語化できずに悩んでいる
こんな人のタメになる内容です!
虚栄との付き合い方
虚栄は人間の存在そのもので、人間的なもののうち最も人間的なもの
これは、自分以上の自分を作ろうとする心で、自分をより高く見せたいという想いのこと。
例えば海で例えると、人間というものは海全体を表していて、虚栄というものは波とか水の分子を表していて、それなしでは海が成り立たない構成要素ですよね。
つまり、人間が生きていく上で虚栄というものは必ず付き合っていかなければならないもので、虚栄のない人などいないというのが三木清の哲学なんです。
では、その虚栄を克服するためにはどうすれば良いのでしょうか?
虚栄を徹底する
これは自分がつくりだした「高く見せた自分」を徹底すること。
つまり、一生仮面を被ったまま生活を送っていくという方法です。
芸能人が芸名を使っているケースを例にすると、そのコミュニティにおける芸名のキャラを日常生活でも徹底すれば、虚栄とうまく付き合っていくことは可能でしょう。
夜のお仕事をされている方の源氏名や、身内内でのニックネームも同じですね。
環境によってキャラクターが変わってしまうと、自分の中で不一致が生じてしまい、虚栄に駆逐されてしまいます。
虚栄心を小出しにする
とはいえ、そこそこの虚栄は必要なので、環境によって仮面をかぶることなく小出しできるようになれば、虚栄とうまく付き合うことも可能です。
創造によって虚栄を駆逐する
創造とは、フィクションをつくること。自分の意思で自分の人生を創造すれば、虚栄を駆逐できる。
つまり、虚栄心の反対語である向上心を持って生活することで、自分の中にある虚栄を駆逐することができます。
他人の評価ばかりを気にして虚栄をつくるよりも、創造に没頭することで無駄な虚栄を駆逐することができます。
愛と嫉妬の違いを理解する
愛と嫉妬は、術策的で持続的な面で似ている。
愛があるから嫉妬が生まれると聞くと、恋人関係などで考えてもイメージできますよね。
例えば、彼氏や彼女のスマホを見て自分の中で想像して嫉妬してしまうのが典型例ですね。
しかし、嫉妬というものは自分の中で作り出されたものであって、事実関係とは全く関係ないのです。
想像力は魔術的なものである。ひとは自分の想像力で作り出したものに対して嫉妬する。
そして、主に嫉妬の対象というのは以下の3パターンに分けることができます。
- 自分より高い地位にいる人
- 自分よりも幸福な状態にある人
- 特殊なものや個性的なものではなく量的なもの、一般的なもの
つまり、嫉妬というのは平均化を求める観念なんです。
本来は自分を高めようとしないといけないのに、相手を下げようとして平均化するのが嫉妬ですね〜
現代の日本で考えても、平均化を求める傾向にあるのは想像できるでしょう。
それは、「平均化を求める詰め込み教育」から進化していないことが要因として挙げられます。
Twitterやinstagramで幸せを見つけると、それがダメなことだと感じてしまうなんて不幸ですよね。
なので、この嫉妬の呪縛から抜け出すためには、個性を認めることを徹底していく必要があります。
とにかく自信がない人は、自分を認めるというところから始めると次第に他者を認めることができるようになりますよ
自分を変えようとする努力をやめた時には、その人は自信がある姿に変われてると言えるでしょうね。
怒りと憎しみの違いを理解する
怒りは人間に必要だが憎しみは必要ない。
怒りは突発的で、純粋性、単純性、精神性を持ち、目の前にいる人に対して起こるものです。
その一方、憎しみは習慣的で永続的、自然性(反知性的)で、目の前にいない人(アノニム=匿名)に対して起こるものです。
要は、怒りには理由があるが、憎しみには理由がないと考えることができます。
先ほどの嫉妬の駆逐と同じで、個人レベルで相手を認めることができれば、憎しみはなくなるのです。
嫉妬とか憎しみをあまり感じない人というのは個性を認めることができる人なので、人間として魅力的だと個人的には思います。
偽善の恐ろしさ
偽善が恐ろしいのは、偽善が意識的なものであり、それは他者や社会に対して起こることです。
三木清は、モラルやルールが自分に合わなくても異を唱えない人のことを偽善者だと考えています。
この時代の日本人は「お上頼み」の思想だったので、言わなくてはならないことを言わないような社会に繋がっているんですね。
多少は改善されたにしても、これは現代の日本にもかなり受け継がれてしまっています。
哲学者をはじめとした表現者が言わなくてはならないことを言わないと、それは表現者としての責任だと考えていたんです。
責任は言ったことへの責任ではなく、表現の機会に言わなかったことに対する責任。
そして、三木清は自分の哲学を世間に表現したことで獄中に入れられ、そこで死を迎えてしまったのです。
最後まで自分の思想に忠実に従った三木清の哲学は、現代日本人も見習わなくてはなりませんね。
虚無や孤独と向き合うことで、人間とは何かを考える
三木清は「人生論ノート」の中で、虚無や孤独とも逃げずに向き合っていく必要があると言っています。
虚無とは
ここでの虚無は人間の条件であって、ニヒリズムとは違います。
ニヒリズムあるいは虚無主義(きょむしゅぎ、英: Nihilism、独: Nihilismus)とは、この世界、特に過去および現在における人間の存在には意義、目的、理解できるような真理、本質的な価値などがないと主張する哲学的な立場である。
出典:wikipedia
虚無を大海と考えれば、私たちは海の中の泡のようなものです。
海は泡が存在するための条件で、虚無は人間が存在するための条件ですね。
生命とは虚無をかき集める力であり、それは虚無からの形成力である。
なるほど、人生とは形成であり、自分自身で自分が生きていく意味を見つけなければならないということですね。
孤独とは
個人的には「人生論ノート」の中で、この孤独論が最も興味深かったです!
孤独を考える上で大事なのは、感情と知性を理解することです。
わかりやすく言えば物事を判断するときに感情的か論理的かということでしょう。
一般的に感情は主観的で知性は客観的だと言われがちですよね。
しかし三木清は、
感情は多くの場合、客観的なもの、社会科されたものであり、知性こそ主観的なもの、人格的なものである。真に主観的な感情は知性的である。孤独は感情でなく、知性に属するのでなければならぬ。
と説いています。
つまり、知性に属する孤独であれば孤独は大切なものだということです!
周りに多くの人がいても混合しないのはある種の強さであり、価値のあるものです。
なるほど!!
また、知性は煽ることができないが、感情は煽ることができます。
孤独だけど、孤独であるがゆえに
- 個人の人格
- 内面の独立
を守ることができ、それが孤独であることの強みなんですね。
ここに三木清は価値を見出したのでしょう。
社会の変容について
ここまで学んできたことで、我々は現代社会にどう活かしていけるでしょうか?
まず、昔は限定された世界で、現代は無限定な世界です。
これはインターネット、グローバル化によってもたらされたことで、現代は個性を形作る関係が無数にあり、人間は無限定なアノニムになると考えられます。
では、私たちはそうした社会でどう生きれば良いのでしょうか?
構想力と秩序をもつことが大切です。
構想力とは、虚無から何かを形作る力のこと。
矛盾や対立を統一させるのではなく、矛盾や対立を抱え込んだまま混合させることが重要です。
その為には秩序が必要で、様々な要素の配列や組み合わせを変えて適切に位置付けることが肝となってくるのです。
それによって人間は「虚無」から脱出できます。
例えば、小学校の体育の授業で、男子二人がソフトボールとドッジボールをやりたいと言います。
ここで片方を選択して一つしかやらないのではなく、時間を変えて前半はソフトボール、後半はドッジボールという様にで位置付けるイメージです。
秩序は上から押し付けたり機械的に切り捨てるものではないため、秩序には温かさが重要なのです。
なるほど、では規模を大きくして考えると、国家の秩序とはどうあるべきなのでしょうか?
外的秩序は強力によって作れるが、心の秩序こそが真の秩序です。
言葉だけ聞いても、国からの押し付けは良くないですよね?
例えば、ヒトラーはドイツ国首相の時に、強力によって秩序を作った典型例です。
当時のドイツ国民は批判能力がなかったので、何も価値観がないところに強力な価値観を植え付けるのは簡単だったのです。
「温かい秩序」の根元には人間の存在を認める価値体系が重要であり、ニヒリズムは独裁主義の温床なのです。
国民一人一人が意識を持って、お上頼みでなく存在することが大切なのは、現代日本でも重要な課題ですね。
最後に 「希望をもつ」ということ
最後に、希望をもつということに三木清は説いています。
人生においては何事も偶然であり、必然であり、それを運命という。そして、希望は運命の如きもの。つまり、生きていることは希望を持っていることと同等のことなのです。
ここに、個人的に三木清の哲学を強く感じました!
冒頭で人生は虚栄であると言っていた人が、最後は希望であると言ったんですよ!
これは、奥さんとの出会いで愛を知り、愛する子供が生まれたことによるのかもしれませんね。
私は未来への良き希望を失うことができなかった。
とも書かれています。
「言ってもしょうがない」みたいな諦めは、精神のオートマティズムを生み出してしまいます。
そして、オートマティズムに巻き込まれると抜け出すのは困難です。
理想だけが現実を変える力があるという考えは、現代のテクノロジーで政治や仕組みを変えていく姿勢ともかなり近いものがあるのではないでしょうか。
現代はインターネットのインフラが整っていて、自分の考えや価値観を発信しようとすればできる環境です。
つまり今大切なのは表現を発信していくことで、閉鎖的な環境にいつまでも止まっていては遅れていくばかりですね。
まずは情報を集め、自分の頭で考え行動することが必要です!
この記事を読んでくださった皆さんは、まずは「お上頼み」の思想を捨て、自分で現実を変えていく努力をしていくことについて考えてもらいたいです。
僕はこのブログを書き終え、また新たな行動を起こします。
さあ、皆さんはどんな行動を起こしますか?